久我山の昔話1-2

◆想い出すままに

◆◆サンゲ、サンゲ六根清浄…
M-1-007

◆一年間の行事

(二月)
〇 一-三日、正月 月おくれの正月は、町制が敷かれるまで続きました。
〇 七日、七草
〇 十一日、庫開き
〇 十五、六日、薮入り
〇 二十日、恵比寿講

(三月)
〇 節分後、最初の午の日 初午祭
〇 十五日、防ぎ正月、休日 疫病が自分の部落に入らないように、他村との道路境に木のお札を下げて祈願する。
〇 彼岸 彼岸の中日には、家中で先祖の墓参りをしました。

(四月)
〇 三日、 雛祭り
〇 八日、お釈迦様の祭り、休日
〇 十五日、榛名正月 各部落から一人づつ計三人で榛名神社へ代参に行き、五穀豊穣を祈願して十五日迄に久我山へ帰り、それを鎮守様に報告する行事。代参の費用は、部落の人が小 麦を一升づつ持ち寄り、それをお金に替えて旅費にあてるのですが、とても足りません。代参のために借金をした人もあったようです。

(五月)
〇 五日、端午の節句 府中の大国魂神社の祭りがあり、若い衆は新しいハッピを着て参加しました。 五月から七月中旬までは農繁期で、農作業をすべて済ませることを総耕上がりといいます。

(七月)
〇 二十四日、 夏祭り

(八月)
〇 十五、六日、盆、薮入り 奉公人は薮入りで里帰りをし、十七日の夕方戻ります。

(九月)
〇 一日、八朔の節句 〇十五日、風祭り 嵐の無事を祈願する。 ○彼岸、

(十月)
〇 一日 秋祭り 祭りが終ると、作物の取り入れや冬の備えに忙しく、秋の農繁期は暮まで続きます。

(一月)
〇 餅つき 私の若衆時代には、少ない家でも四斗俵で三俵、多い家では十俵から十五俵程も餅をついたものです。若い衆が五、六人で夕方からつきはじめ、翌日の夕方までかかりました。

◆雨乞い

八月は日照り続きが多く、毎年のように雨乞い祈願をしたものです。夏の日照りで困ると、村の代表が井之頭の大盛寺へ行って、坊さんにお願いします.坊さん は弁財天うらの池の水を汲み、それを弁天様にお供えし雨乞いの祈願をします。その水を受け取った村の使者は、掛けあい念仏というのを唱えながら、久我山へ 帰ってくるのです。村からもお迎えが出ます。最初に迎えに出る人を一番迎え、次に出る人を二番迎えといい、久我山の村に入る頃には村人全員が迎えに出て皆 で神社へ向かいます。

神前にその水を供え、村人が集まりお祈りをあげてから、竹筒に入ったその水を神田川へ運びます。宮下橋の下手あたりの川の両岸に新しい竹を立て、それにしめ縄を張り、その中央に竹筒を吊るしますと、揮一本になった村の男たちが川へとび込むのです。その時村の長老が、

「サンゲ、サンゲ六根清浄」

と唱えます。岸では太鼓を打ち鳴らし、川の男たちも唱和しながら、その竹筒めがけて水を掛けるのです。夕方まで同じことを二、三回繰り返すのですが、たま たまその時夕立雲でも現われたら大変です。祈りが速く激しくなり、猛烈な勢いで水を掛けます。 子供の頃のことですが、いくら雨乞いをやっても雨が降りませんでした。そこで樽みこしを担いで、村中をねり歩くことになりました。空樽に水を入れ、その中 に井之頭弁財天より頂いた水をそそぎ堅くふたをして、みこしのように村中をねり歩きました。樽みこしが通ると家から人が出てきて、その樽めがけて水を掛け るのです。 その日は雨が降りませんでしたが、二、三日したら大夕立が降りました。願が叶ったのだといって、村人は神社へ御神酒を供え祝いました。これを。おしめり正 月”といいます。

◆稗庫屋敷について

稗とは昔から五穀の内に数えられた雑穀です。五穀とは米、麦、粟、黍、稗で、その中でも何年たっても味の変らないのが稗なのです。昔は飢饉に備えて食物を 貯蔵しておいたのです。今、日本では飢饉という言葉さえ聞かれませんが、昔は他国との交流がない為、少しでも旱魃が続くと飢饉になってしまうのです。

明暦(一六五五~五七)の頃には大飢饉にみまわれ餓死した人も多かったので、時の名主により、稗を貯蔵する事にしたのだそうです。稗庫があった場所は、神 社の東隣り、現在の久我山幼稚園の南で、高台で風通しの好い所です。倉は土で塗り固め、下に一ヶ所品物を出す口があって、上からかまわず入れたのです。豊 作の時には誰でもその中に入れておき、倉の中はいつでも一ぱいにしておいたのです。いざ飢饉の時には、部落の人は誰でもその稗を持ってきて食べられるので す。その後も久我山では飢饉が度々あったそうですが、一人の餓死者も出さずにすんだとの事でした。

その後、明治になって他国との交易が多くなり、また甘藷の栽培などで心配もなくなりましたので、倉もなくなってしまいました。父が子供の頃はがまだ倉があったとの事です。それであの土地を稗庫屋敷と呼んでいたそうです。これは父から聞いた事なのです。
今は米が取れ過ぎて困る、などと昔の人が聞いたら何と思うでしょうか。誠にもったいない話です。

M-1-008

◆明治の初めまでは「秦野」だった
M-1-009

「秦野」姓がなぜ「秦」に? 昔はどこの部落にも名主がいて、村を治めていました。.久ヶ山では秦友吉さんの家が代々名主を勤めていたのです。

ある代の名主の分家に、子供の頃神童といわれた程賢い子息がおりました。そこで名主は自分の子供と分家の子供を取替えたのだそうです。ところが神童といわ れた子供も、三十歳すぎればただの人という昔の諺通り、名主である養父の亡きあとは、女狂いで家にも居つかぬ道楽息子になってしまったのです。反対に分家 に養子に行った人は人望もあり立派な人でしたので、 「私は名主の子供であるから私が本家の跡をつぐのが当然」という事で名主になってしまったそうです。非常に賢明で近郷六ヶ村の大名主にまでなったそうで す。

明治になって名主制度が廃止になり、それにかわる戸長制度ができて、戸長とそれを補佐する村役人が設けられました。久ヶ山では各部落から一人ずつ、三人の 村役人が選ばれたのです。戸長には秦野太左衛門という人が選ばれました。戸長制度と併行して戸籍法が発令され、戸長は戸籍簿を作って政府に提出する事にな りました。久ヶ山には「秦野」姓が余りにも多いので、そのとき手数をはぶいて「秦」一字だけ書いて戸籍簿を作ってしまったのだそうです。さすがに村人から 苦情が出たそうですが、自分も「野」を捨てたのだから文句を言うな、と戸長に一喝され収まったそうです。

今でも隣接している牟礼には、その頃久ヶ山から分家していって「秦野」姓を名のっている家が二、三あります。また稲荷神社に残っている古い絵馬や納額は 「秦野」姓になっています。その後、六ヶ村の戸長の家にしてはというので大きな家に建てかえたそうですが、子供たちが皆道楽息子で家に居つかず、とうとう その大きな家も人手に渡ってしまいました。その家は、現在奥沢の九品仏の庫裡として残っています。運搬の時には父も手伝って、大八車を引いて行ったとの事 です。 名主の後はペンペン草が生える、といわれるように、今ではどこにその大きな家があったのかさえもわかりません。その家族は四谷方面にいるとの事です。

◆秦野氏と久ヶ山

これは何の文献も記録もありませんが、古老.の言い伝えをもとに、私の想像と推理によって私なりに書いたものです。 時は治承四年(一一八○)、源頼朝が伊豆で旗上げの時、これを助けようと北条時政が一族を従えて伊豆山におもむきました。その一族の秦野氏は頑固一徹な人 で、今日まで平和に暮せたのも平家のお陰だし、たとえ時政殿の命令でも、どうして大恩ある平家に弓を引けよう、私はどちらにも加担せず、秦野荘を捨てて誰 も知らない所へ行き百姓でもして暮そう、と一族郎党を連れて武蔵野に向いました。

武蔵野をさまよい歩いているうちに、この地に着いたのです。見れば葦の間を清らかな川が流れ、川の両側の台地には雑木林が茂っていて身を隠すには絶好の地 を見つけました。そして川の北側の陽当りのよい地に住みついて、葦を切り開いて水田を作り、裏の雑木を切って畑にしました。

やがて村の型が整い、秦野氏の氏神である稲荷大明神を祭り、そして疫病守護の神である牛頭天王大権言を合せて祭る神社を作り、久ヶ山の鎮守としました。 久ヶ山の地名も、我々のこの地が永く久しく栄えますようにという事で久しをとり、その当時神田川の流れから台地を見ると、雑木林がいかにも山のように見え たのでしょう。それで久しく続く我等の山、即ち久ヶ山という地名ができたのではないかと思います。

やがて北条氏が滅亡した時、その家臣の大熊氏が落ちのびて、秦野氏を頼って久ヶ山へやってきたのです。(これは大熊家に文献があるそうです)秦野氏は大熊 氏をかくまい、北の台地には既に秦野氏が住んでいるので、大熊氏は南の台地を開墾するようにという事になって、大熊氏も久ヶ山に住みついたのでしょう。大 熊家一族では、今でも落人の子孫であるというので、男の子の初節句にも鯉のぼりをあげないしきたりになっています。これも祖先からの言い伝えなのです。

また私たち秦家にもいくつかの系統がありますが、どこの家が総本家であるのか今ではわかりません。

系統と申しますと、私の家の本家の本家そのまた本家と称する家があったのです。その家は昔寺のあった所の西隣りの南傾斜の高台で、今は樋野さんのお住居の ある所です。私が十六、七歳の頃、その家へ遊びに行ったので覚えているのですが、盆の御霊を祭る祭壇に黒ずんだ位牌が沢山ありました。その時は何の関心も なかったので別に気にもとめなかったのですが、今ではとても残念に思っています。しかし、自分の地続きに菩提寺を建て、またすぐその先に氏神即ち村の鎮守 を祭る事など、いかにも昔の豪族のやりそうな事なのです。あるいは総本家のなれの果てなのかも知れません。
M-1-010