久我山の昔話1-5

◆想い出すままに

◆◆西のはずれは酒二升
M-1-014

◆笠原(カサッパラ)と八反畑

久ヶ山というのは大字で、その中に東の原、北の原、中屋敷、西の原、鍛治屋敷、向の原(ムコウノハラ)、三屋(サンヤ)、堀向(ホリムコウ)の字がありました。

中屋敷には稲荷神社もあり、ほぼ村の中央で、私の家はその西の端にありました。鍛治屋敷は、神田川の北側の台地で上高井戸に連なり、私たちの子供の頃は松や雑木の林でした。旧鎌倉街道に面していたためか、昔そこに鍛治屋があったので鍛治屋敷という地名になったそうです。

西の原は吉祥寺に連なる地域ですが、土地の百姓には笠原とか、八反畑といった方が馴染み深いのです。

笠原という場所は、奥深い雑木林に北と南がはさまれた、東西に細長い地形で、そこには家が一軒もありません。だから笠原に畑仕事をしに行くときには、どん なに好い天気の日でも必ず笠を持って行きます。もし急に夕立ちにでもなったら、かけ込んで雨宿りする所がないからです。笠を持たずには行けない原、という ことから笠原と呼ばれるようになったのでしょう。

その笠原の先が八反畑で、今では立教女学院があり住宅が建ち並んでいます。江戸時代の末頃のこと、 「八反畑はやせ地で、麦を作ってもよその土地の半分位しか取れないし、雑木を植えても育ちが悪い。税金の足しにもならない。いっそ酒の二、三升とでも換え てしまいたい」という地主のぼやきを、吉祥寺の小俣という人が聞き、酒二升と八反歩の土地を取り替えることになったのです。今やその土地は、立教女学院西 側の高級住宅地になっており、洋画家の鈴木信太郎氏の住まいもあります。今から思えばウソのような話です。

その子孫にあたる小俣さんが、その土地を分譲するので宅地造成した際、弥生式土器が沢山出てきたそうです。後になって小俣さんに聞いてみましたら、出てきた土器は井の頭文化園に寄贈しました、と言っていました。

余談ですが、私の土地からも土器片が出てきた場所が一ヵ所ありました。銀蔵橋を渡って右側、逸見良之助さん(久我山三ノ四六ノニ)の住まいになっている所 です。考古学なんて知らない時代です。瓦片のために鍬で足を切るとか、麦や陸稲を刈るとき鎌がすべって怪我をするといって、仕事の合い間に土器片を拾い出 しては道端に積んでおくと、いつの間にか学生が持っていってしまいます。そこから出る瓦は布目瓦というのだそうです。その近くの畑でごぼう掘りのため、赤 土を二尺程掘りおこしたときカチンと音がするのでよく見ると、長さ約十四、五センチの石のヤジリのようなものが出てきました。しばらく持っていたのです が、高井戸第二小学校へ寄贈したいというので女婿の大熊先生へ渡しました。

◆◆発行にあたって

亡父の三周忌を迎えるにあたって、父が生前ノートに書きとめておいたものを、小冊子にまとめてみました。 みなさんもご存知の通り、父はその生涯を、自分の生まれ育った久我山という地域社会のためにのみ生きてきた、といっても過言ではありません。そして、久我 山の激しい移り変わりを見つめながら、土に帰っていきました。 最晩年は、古くからの言い伝えや自分で見聞きしたことを、憑かれたように書き綴っていました。虫の知らせでもあったのでしょうか、いま記しておかないと、 のちのちになってではわからなくなってしまう、と思ったからでしょう。 入院して数ヵ月たったある日の夜、危篤の報で駆けつけてみると、父の顔が、まるで少年のような顔になっているのでハッとしました。おそらくその時、父の心 は、古きよき頃の久我山の山河で遊んでいたにちがいありません。翌、昭和四十八年三月二日未明、父は満六十八歳の生涯を閉じました。 今、そのノートを読んでみると、不明な点が少なからずあり、元気なうちに聞いておけばよかったと悔まれます。読みづらい個所に多少手を加えてまとめたの が、この小冊子です。 お暇な折りにでも、生前お世話になったみなさまに目を通していただき、亡父が久我山をこよなく愛した気持を、行間から汲みとっていただければ、亡父も本望 かと存じます。

秦庄平 昭和五十年二月

表題:秦秋子 力ツト:秦ふみ子