故事・伝聞

久我山稲荷神社関連の故事伝聞

◇朝鮮の志士の話
(人心同の碑)

朝鮮の志士、金玉均(キム・オッキュン、김옥균、きん ぎょくきん、1851年2月23日(旧暦1月23日) – 1894年3月28日)の文になる石碑が久我山稲荷神社にあります。 金玉均 (日本で言えば、坂本竜馬のような人) は、清朝末期のクーデターに失敗、日本に亡命(実態は小笠原で幽閉)、されていました。
そこで、久我山村出身、小笠原で砂糖栽培で成功した飯田氏と出会います。二人は遠く離れた地に居て、老父へ親孝行もできない、と互いの身の上で共感しあい、金玉均が 「体は 離れていても心は同じ」 との気持ちを文として、久我山の飯田氏(小笠原、飯田氏の父)へ贈りました。 それを石碑にして久我山稲荷神社に奉納され、今も残っております。
この石碑を見るために、今もわざわざ韓国から訪れる方もおられます (日本人が今も坂本竜馬を慕うのと同じなのでしょう)。 少し、変わった形の石碑です。 ぜひ、神社へお越しいただき、ご自分の目でご覧ください。

日本の志士の話 (近藤 勇に関する言い伝え)

近藤勇(新選組局長。天保5年(1834年)- 慶応4年(明治元年、1868年)4月25日)は板橋の刑場で処刑され、首は晒し者にするため、京都に運ばれました。
近藤の家族(多摩在住)及び、門弟は、板橋に埋葬された遺骸を夜陰に乗じて密かに掘り起こし、運び出しました。 三鷹の龍源寺に埋葬するためです。
板橋から休憩もせず、足を速めて大八車に乗せて運んできたのですが、追っ手の姿も見えず、又、隣村まで来たという安心感からか、久我山稲荷神社下で休憩を取ったそうです。 馬には当時あった、水飲み場で水を飲ませてやりました。 馬も人も、そうとう緊迫していたでしょうが三鷹に近い香りの水を飲み、 恐らくつかの間 ホッとしたことでしょう。 寸時の休憩をとってから、宮下橋(神社から下ってすぐ、神田川にかかる橋)を渡り、人見街道を三鷹に急いだようです。
◆後日談
上記の話は実は久我山以外の地誌に載ってたり久我山以外で聞いた話だったのですが、先日、久我山の長老が同様の話をしていた、という話を聞きました。
その話では、神社下から今の人見街道に入ったとこのあたりに明治のころまで馬の水飲み場があり、そこの持ち主だった人の話として同様の話が残っています。
板橋の刑場から久我山稲荷神社近辺まで一目散に走ってきて、そしてやっと休憩を取ったというのは間違いないようです。
上記の話は三鷹、久我山近辺に伝わる伝聞です。
山形県米沢市の高国寺にも近藤勇の従兄弟 近藤金太郎が首をひそかに持ち帰り埋葬したとされる墓があります。 歴史の上では、近藤勇の首は行方不明、の扱いとなっています。