久我山の昔話1-4

◆想い出すままに

 ◆◆村の鎮守の神様は…
M-1-013

◆天祖神社の合祀

久我山の鎮守様は、正一位稲荷大明神と牛頭天王大権言の二柱です。(現在奥の院の両側の砂利場にある小さな古いお狐様の台石に掘ってあり、弘化三年(一八四六)と印してあります)そしてまた、天照大神を祭る天祖神社が合祀されております。

父から聞いた話です。

明治四十年頃、久我山村の所有であるお伊勢の森には、小さな社が祭ってありました。たまたま稲荷神社の裏地を、地続きだから神社の所有地にしたい、と相談 がまとまり、地主の秦磯次郎さんに話しましたところ、心良く承諾してくれました。しかし買取る代金がなくて、村中の相談会になったのです。

その席で父が、村の所有であるお伊勢の森の土地を売り、その代金で磯次郎さんの土地を買い、お伊勢の森にある天祖神社を稲荷神社に合祀してはどうかと提案 したそうです。それは名案と全員が賛成したそうです。しかし誰があの土地を買うのか、もし買い手がなければ上の家(私の家の呼び名です)で買ってくれるの かと言う者もあったので、父はすぐに、私が買うのでなく秦格之助さんに買わせますと言い、その件も格之助さんが買うという事で、話はとんとん拍子に進み、 早速登記をすませて、稲荷神社は裏地を手に入れることができました。それで天祖神社が合祀されているのです。

裏地は社有地となり、そこにサワラの苗木を植えました。現在、久我山幼稚園がその一角を占めているあたりで、もうその時のサワラは何本も残っていません。 それに、その苗木を植えた人も殆ど亡くなってしまいました。また、お伊勢の森というのは、高井戸第二小学校の校庭、今のプールのある所です。

その後、格之助さんは、古びた天祖神社の社を自分の家の守護神として、土地の一角に祭っていました。私たちが小学校に入学した頃その社はありましたが、増築に次ぐ増築の為、秦保則さんの代になり、自分の宅地内に移して祭り、現在に至っています。

◆どんど焼きと神社の再建

正月の松飾りとか古いお札を集めて焼く“どんど焼き”の行事は、各地に残っていて、時たまテレビで中継されたりするので、知っている方も多いと思います。 祖母から聞いた話です。 昔、久ヶ山でもどんど焼きが行われていました。稲荷神社の下、現在は中沢理容店や小杉ランドリーがあるあたりは、その頃雑草の茂る荒地でした。旧正月が明けるこ月十四日の夜、そこでどんど焼きが行われたのです。

ある年のこと、その日は朝から風が吹き荒れていました。しかし伝統の行事だからといって、.どんど焼きを強行したのです。果して風に乗って火の粉が飛び散 り、先ず寺から火の手が上がり、次いで隣の稲荷神社にも飛び火して類焼してしまったのです。それ以来久我山では、どんど焼きを止めてしまったそうです。

その後、寺は現在の久我山共同墓地の南側に再建されました。稲荷神社脇の坂が”元坊坂(モトボウザカ)〃と呼ばれていたのは、以前そこに寺院があったからでしょう。

その後、神社は再建されたのですが、いつの事なのか何の記録もないのが残念です。記録があれば、後日神社の昇格についてどのくらい役立った事か、とても残念です。

稲荷神社を再建するにあたり、それ迄の境内が手狭だったので、社殿を四、五間後へずらせて新築したそうです。村の古老達の話によると、昔の社殿跡附近の土 が、何回土盛りしても何故かそこだけ陥没するというのです。その場所というのは、社殿の前にあるお狐様の後で石畳が敷かれている所です。昔の総代の秦半蔵 さんや大熊磯吉さんなども、この穴を掘れば何か出るのではないかなどと申していましたが、今だに誰も手をつける人はありません。何かの機会に掘ってみるの も良いではないかと思います。

◆夏祭り・湯の花神楽について

土地の古老の話によれば、湯の花神楽がいつ頃から始まったのか定かではありませんが、多分お狐様の台石に印してある弘化年代、今から一三〇年程前ではないかと思います。

その昔、久ヶ山の部落に疫病が蔓延した時、湯の花をもって村人を祓え、との神様のお告げがありました。そこで早速お告げに従い、神前で神楽を舞い、大釜に 湯を沸かし、神官が榊の枝で釜の湯をかきまぜてお祓いをしました。するとウソのように悪病が退散したとの事です。それ以後、秋の大祭に加えて、近郷にはな い夏祭りを久ケ山では行なう事誓ったと言い伝えられています。

以来毎年続けてきたのですが、明治こ十七、八年の日清戦争の折、村中の青年たちが兵士として出征して行きました。国家総動員、国難の時にお祭呈して神楽で もないだろうから一時休もうとの事で、夏祭りが行なわれませんでした。果たせる哉、その年の夏に赤痢が大流行し、久我山の三分の一もの家庭に葺莚してし まったのです。

親戚の葬儀で吉祥寺へ出かけていった人がありまして、その人が久我山へ戻るなり、赤痢で死亡したのが発端でした。衛生観念が遅れていた昔の事で、その人の 葬式に参集した村人が次々に赤痢で倒れていったのです.その頃の久我山は無医村なので、村人は手をこまねいて唯オロオロするばかりでした。

この話が近隣に広まって、高井戸村の駐在所に伝わり、花形さんという巡査が医者を連れてきて、村中を消毒してまわるやら患者の治療にあたるやらで、ようやく赤痢も下火になったのです.当時は駐在所といっても、下高井戸にあるだけだったそうです。

その時親身になって世話をしてくれた花形巡査を「久我山の救いの神」だといって、村人はいつまでも慕い続けたそうです。その後花形さんは、高井戸村役場の 戸籍係になりました。私の家なども大変世話になったとの事で、毎年暮にはお餅をつきお歳暮としてとどけていました。私も高井戸第一小学校へ通学していた 頃、その鏡餅を持って行った覚えがあります。

そんな訳で、翌年より湯の花神楽が復活して今日まで続けられてきました。ですから、久我山では秋祭りより夏祭りの方が盛大に行なわれてきたのです。夏祭りはこの近郷にはなく、また総耕上りの日と結び付いて行なわれたからだと思います。これが夏祭りの由来です。

また、天王様の。おしまち”(お日待ち)という行事が昔から行なわれていました。一月、五月、九月の二十四日の夜、年三回各部落ごとに一戸一戸順々にまわ るのです。その宿に当った家では、一日がかりで部落の人のご馳走や甘酒なども作りました。先ず、牛頭天王大権言と書いた掛軸を掛けて御神酒、灯明をあげ、 海の幸山の幸や野菜などを供えて祭壇を作ります。部落の人が皆お参りして、.一晩中語り明かすのです。大ていの相談事は、その晩に決定されたようです。東 組には今でもその行事が残っていますが、他の二つの部落は止めてしまいました。

時代も変わり、久我山も次第に発展し久我山町会ができた頃、年二回の祭りは大変だから夏祭りを廃止しよう、という話が持ち上がった事がありました。勿論、 「私たち土着の人間は断固反対しました。なにも崇りを怖れた為ではなく、夏と秋の祭りでは性格が異なるからです。この夏祭りが、いつまでも続く事を願って います。

◆神楽殿と神社昇格願い

明治の終り頃より、村の鎮守である神社を何とかして村社に昇格させたいという話が総代会でまとまりました。その為には条件があって、神社のできたいきさ つ、いつ頃できたのか、社殿の屋根が銅板か板葺きか萱葺きか、それに水屋、神楽殿、社務所などでした。いろいろ相談しますと、社務所はなくてもよいだろ う、しかし神楽殿か水屋のどちらかないと、との事でした。

そして大正二年頃だ思いますが、神楽殿が建てられたのです.これで条件も整ったので、昇格の願書を神社庁に提出したのです。村では、神楽殿を祭礼の時だけ 使うのではもったいないと、青年会の倶楽部として貸したのです。神社庁から調査にきた時、青年会も何かの会合があって、大勢の若衆が騒いでいたそうです。 何も気らなかった若衆たちは、調査官に対していろいろ悪口を、言ってしまったのです.調査官は余程頭にきたらしく、帰ると直ちに条件不備を理由に昇格願書 を却下してしまったのです。

却下された理由を知った村では、青年会の倶楽部は他の場所に建てようと、秦友吉さんの土地を借りて新築したのです.倶楽部は井の頭線開通後までありましたが、台風壊れてしまいました。場所は久我山公園の隣り、八木沢、石井両家の所です。

その後鮭を新築屋根も銅板とし、社務所もできたので、再度昇格願書を出したところ・今度は無事に昇格したのです。

◆御神木

秦十四雄さんの調べた「武蔵風土記」によると、源義朝が奥州に向う時、大宮八幡宮に松の苗木一千本を寄進され、菰を附近の各神社に分けたとの事です。その時、久ヶ山の神社にも数本植えたのではないかと思われ、それが後の御神木ではないかと思われます。

昔、裡拝殿わきの御神灯の少し東側に、大人五、六人でなければかかえきれない程の松の大木、当時の御神木があって、社殿の上におおいかぶさっていたとの事です。が、どんど焼きの火で社殿が火事になった時、火にあぶられて枯れてしまったとの事です。

それより小さな松が五、六本あったそうですが、次々と枯れ、最後に一本残ったのが、私たちの知っている御神木です。その当時は一番小さかったのが、大人四 人で手をつないでかかえる程でした。その御神木は青空高くそびえ、遠く鳥山、甲州街道からよく見えたのです。昔の人が方角を見極める標識の一つになってい たとの事です。その松は地上二〇メートル程のところで二またになっていたのですが、台風の直撃を受けて一本が折れてしまい、私たちの覚えているのは、折れ たあとが洞穴になっていて、その中にふくろうが巣を作っていた事や、六尺もある青大将が首を出して赤い舌をペロペロ出していたのを覚えています。

それが昭和十四、五年頃、松食い虫の為に枯れてしまいました。そして近隣の材木屋による入札で売られたのです。私もその入札の世話人の一人として参加した のです。その松の樹令を年輪でしらべてみたのですが、三百年ぐらいまではわかりました。それ以上はあまり細かいので無理でしたが、・五百年以上は確かのよ うでした。久我山がいかに古いか実証できるでしょう。

◆庚申様と砧の木槌

稲荷神社の石段の下、石の大鳥居の右側に庚申様の小さな祠があります。それが、久我山の氏子の道祖神なのです。道祖神は塞の神ともいい、疫病を除き、村人を光明と幸わせの道に導き、平和な里を護る神様なのです。殊に西方を向いている庚申様は、御利益が多いそうです。

いつの時代でも平和なとき程、流行り病や人々の不平不満が多いものです。久ヶ山で道祖神つまり塞の神を祭っだのが、江戸時代で最も平和だったといわれる元 禄の十六年(一七〇三)なのは、何かを示唆しているように思えます。塞の神を祭る“どんど焼き”も、恐らくその頃から始まったものでしょう。

さて庚神様には、砧の木槌が沢山奉納されていました。この辺りでは昔から自給自足の生活が普通で、買う物といえば塩と砂糖、それに時たま魚を買うくらいの ものでした。衣類はといえば、古くから蚕を飼っていたので紬を織ったり、木綿の反物を織ったものです。私が子供の頃までは、冬の農閑期になると、チャンカ ランチャンカランと機を織っている音が聞こえました。秋の夜長には、男は藁仕事、女は機織りか砧を打つかなので、さまざまな音を聞きながら眠りについたも のです。

その砧を打つ木槌は、農家の大切な道具です。恐らくその木槌を塞の神に捧げて、蚕の上作を祈願したことから始つたのでしょうが、いつの頃からか病気平癒に 御利益があると信じられるようになりました。祠に納められてある木槌を借りてきて、患部をたたいたり撫でたりすると病気が癒るというのです。それで病気が 全快したら、新しく木槌を一つ作り借りてきた木槌と一緒にお返しするのです。祠の中には、そんな木槌が山をなしていました。

砧をうつ木槌といっでも、今の人にはどんな物か見当もつかないと思います。それを見られるだけでも楽しいでしょう。